ゲイムマンのブログ:砧公園秘密基地: ゲイムマンが世田谷のゲーム脳講演会に行ってきた [ITmedia +D Blog]

世間をにぎわせているとんでも理論「ゲーム脳」。その提唱者の森昭雄氏の講演があったようで、それをITmediaで日頃なつゲーネタなどを披露して楽しましてくれているゲイムマンさんが突撃してきたようです。
ゲイムマンさんはもともと徹底抗戦のスタイルなので、その抜粋項目もなかなか痛烈で攻撃的です。

・森教授を批判する人は全員、「ゲーム会社と何らかのつながりがある」ことになってるらしい。
サンデー毎日」で、京都大学の櫻井教授が、森教授の胡散臭さを指摘したことに対しても、
「京大はゲーム会社から70億もらってますから、本当に言いたいことは言えないんでしょう」

山内さんの70億寄付は、懐柔用とでも言わんばかりですね。こんな他人の善意を平気で侮辱するコメントを大衆の面前で吐く時点で、この森氏の人間性が知れますね。

・「少年犯罪が増えてない」ことを指摘されたのに対し、森教授の回答は、
「私は日本人です。日本のこどもたちが壊れていくのを黙って見過ごせますか?」
・それ聞いた聴衆が拍手喝采

どこの宗教団体ですかw。洗脳セミナーみたいですね。まあ、聞きに来る人がゲームを敵視している主婦層、それをあおり肯定することで自分のアイデンティティを保っている森氏だから、無理もないのかもしれないですけど。でも、この構図本当、宗教抗争、民族抗争とにたような構図ですよね。
「我々に職がないのは、移民たちが大勢いるせいだ!だから排除しろ!」
「子供たちが勉強しないのは、ゲームがあるせいだ!だから排除しろ!」
どこが違うんでしょう?問題となる項目の原因はほかにも多数あり、そんな単純なものではありません。文句を言っている側に原因があることもしばしば。しかし、それを認めるのは苦痛だから、他人、他のことを敵に仕立て上げて一方的に非難する。よくある構図ですよね。


ゲーム脳については、すでに多くの方がとんでも理論だということで反論してらっしゃるので、自分は多くは語りません。自分のゲームに関する印象を述べておきたいと思います。
ファミコンの発達とともに成長した自分としては、ゲームというのは単純に娯楽であり、コミュニケーションの道具です。友人宅にいりびたって対戦ゲームで盛り上がる、RPGの話題で学校で語りあう、など完全に生活の一部でした。親には理解されず、怒られた記憶もいろいろありますが、それでも自分は勉強と両立できたので見逃してもらえたところはあります。


個人的な感想では、勉強もゲームも、通じるところがあると思っています。ある課題、問題があり、それを解決するための解放を頭で覚え、体で覚え、解決していく。社会で多くの事項を記録してテストで高得点とるのも、ゲームでパターンゲーを完全に把握してクリアするのも仕組みは同じです。アクションゲームの動きになれるのも、英単語などを繰り返し書いて覚えるのとにています。
実際、自分は完全に勉強はゲーム感覚でした。いかに高得点をとるか、というスコアアタック。勉強すればした分、確実に点が上がりましたから、手応えもありました。TVゲームと違うところと言えば、キャラクターやシナリオ、演出という直感的に訴えるものがないと言うところだけです。他人と競い合い、いい点数をとり、自らも上達していく、というプロセスは変わりません。
これのいい例が、最近ブームを起こしている脳トレじゃないでしょうか。脳トレは、別に過度な演出、ストーリーはありません。教授というキャラはいますけど、これもちょっとした味付けにすぎないでしょう。内容は単なる記憶や計算ですが、これがおもしろい。純粋に、繰り返し問題を解くことでスコアが向上していく、脳年齢が上がっていくそのプロセスが非常にシンプルかつダイレクトで、楽しいわけです。
自分はシミュレーションゲームや複雑なゲームはあまりやりませんでしたが、これらのゲームに非常に長けたゲーマーで、かつ頭のいい友人も、周りには数多くいました。やはりゲームでも勉強でも私生活でも、ロジカルな思考、クリエイティブな思考は重要です。ゲームが上手な人は、そうした思考力、能力に長けた人も多くいました。そういった意味で、ゲームというのは決してマイナス要素ばかりではないと思うのです。


ただ、一方的に「ゲームは悪くない!」とだけ主張するだけなのも反対です。本当にゲームしかやらず、勉強も人付き合いもしないような人間が、「ゲーム脳なんておかしい」「ゲームは悪くない」と主張してもまるで説得力がありません。それでは、子供の教育がちゃんとできていないのに、その責任を棚上げにして「ゲームがあるからいけない」と主張する大人と大差ありませんから。ゲームを肯定してもらいたいならば、ちゃんと勉強し、授業に出て成果を出すことが、当然の義務ですし。

残虐ゲームの規制問題などもそうです。GTAみたいなゲームをやったからといって、誰もが犯罪者になるとは思っていませんし、戦争ゲーム、FPSも、これで人殺しになるとも思っていません。ただ、物事の善悪もつかない年齢の子供、悪いことにあこがれを持つ思春期の子供にただ何も規制せずやらせてもいいものでもないと思っています。正直、人の死に方が技術の向上でリアルになっていくPCゲームの世界などは、生理的な嫌悪感は非常にあります。そうした感情を持つ一般人に対して、ゲームは悪いものだと思わせないためにも、業界としての規制は必要だと思っています。
ファミ通の浜村編集長が、ファミ通の最後のコラムで率先して「年齢規制などいらない」とか言って子供にそういったゲームをやらせていることを書いていますが、こういった姿勢は非常にマイナスな行動ですね。少なくとも公の場でやるなよと。)


とはいえ、何かに熱中して他のことに手が着かなくなるのは、これは他のどんな娯楽でもそうでしょう。ネット中毒とかもそう。スポーツでさえ、はまりすぎて仕事に差し支えるようならばそれは問題でしょう。甲子園球児が勉強がおろそかになる、というのも、ゲームにはまって勉強がおろそかになるのも、レベルとしては変わりません。

残虐性のあるゲームについても、これも一概にゲームだけを責めても仕方ないことですし、個人的には昨日見た映画「コマンドー」の方が、よっぽどグロテスクでリアルで、抵抗感が強かったです。なんでもゲームだから悪、という論調には反対です。GTAなども、自分は単に嫌悪感を覚えるからやらない、というだけですし。


結局のところ、ゲームは大人がそのおもしろさを理解できないから、非難されるんですよね。未知のものを警戒し、嫌悪するのは人間の素直な感情です。要するにイメージの問題です。
そういった意味では、最近のニンテンドーDSは、ゲームのイメージ向上におおいに役立っているといえるのではないでしょうか?脳トレどうぶつの森といった家族で話の種となるゲームを積極的に展開している任天堂は、「ゲームの社会的地位の向上」という明確な思想の元、ゲームを展開していると言えるでしょう。
映画や他の娯楽に年齢制限があるように、害があると思われるものをゲーム業界自らが把握してコントロール、悪いものは自浄していくことも重要でしょう。そういった安心感、社会的な貢献度があるからこそ、純粋な娯楽であるムービーRPGやギャルゲーなども社会に受け入れられるわけですから。


以上、ゲーム脳なんて言うとんでも理論に対しては、理論を持って反論するのではなく、上記のようにメーカー、ユーザの双方が身をもって有害でないことを示していくのが、一番有効な手段ではないでしょうか。ゲームをしていても勉強でいい点がとれる。友人が作れる。メーカーも、家族のコミュニケーションの道具となるゲームを作る。悪影響を与えそうなゲームは自ら取り締まる。そういった、小さな、しかし確実な努力を続けていくことが、ゲームにとって大事なことだと思います。